霊感少女と人質姫君と変態王と憑いてる私

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番外.人形姫と愚者と恋うる産声

 シルヴェスターの部屋から自室にお持ち帰りされるという妙な体験をしたティベリオは、ぽすんとベッドに乗せられるという初体験までする運びとなった。
「ミミミ、ミシェルさん……?」
 思わず敬語になってしまうティベリオだ。
 ミシェルはといえば、躊躇いもなくベッドに昇ると、はじめからめくられていた上掛けを、自身にかけながらころりと横になった。ここで寝る気満々である。シルヴェスターほどではないが、ティベリオのベッドも広いので二人寝る広さは充分ある。あるが、そういう問題ではない。
 ティベリオはため息一つつくと、他に寝る部屋を確保すべくベッドから降りようとして、ぐいと腰を引っ張られた。ぎぎぎ、と振り向けば、やはりというか、ミシェルが両腕でがっちりホールドしている。
 思わず眉間を摘まみ、どうしてこうなったと思考を巡らせた。



 少し前のことだ。
 今日は非番で、自室で寛いでいたティベリオの元にノックの音が上がった。誰何しても応答はなく、ピンときて開ければミシェルがそこにいた。初めてのことに面食らったが、どうかしたのかと声をかければ。
『今日はここで寝ます』
 枕と一緒に抱えていた紙を掲げたミシェルは、呆気に取られるティベリオの脇をすり抜けてベッドに向かった。そしてベッドによじ登り、スタンバイ完了と言ったように枕を抱え座り込む。まるで毎日そうしているかのような躊躇いの無さだ。ベッドを乗っ取られたティベリオは唖然とするしかない。
「一体何事かなっ?」
「…………」
 立ち直ってフレンドリーに声をかけても、やはり応答はなし。今日もミシェルは無言です。
 ティベリオはやれやれとため息一つつくと、早々に降参した。
「わかった、ここはミシェルに譲ろう。じゃあ、おやすみ」
 もはやミシェルの奇行にも慣れっこである。言い残して、部屋を出た。幸い部屋はいくつもある――――と考えていたところ、今しがた出てきた自室の扉が開く音がし、がしっと背後から抱きつく者が居た。
「! ――――ミシェル?」
 振り向き見下ろせば、ミシェルががっちりとホールドしている。なんだこれ。
「んん? 俺に用があったの?」
 こっくりと頷くミシェル。
 だが、さっき『今日はここで寝ます』という紙を掲げていた。部屋を乗っ取った以上、ティベリオに用はないような――――と首を捻り。まさかとミシェルを見下ろした。
「……俺に一緒に寝ろと言ってる?」
 それ以外ねーよと頷きなさったミシェル様。
「――――ミシェル、未婚の男女が寝所を共にするのは良いことではなくてだな」
 ミシェルの表情は変わっていないのに、何言ってんだコイツはという目に変わったような気がするのは気のせいか。
(はい、シルヴェスターと寝るよう唆したのは俺ですね)
 ミミが旅立った直後、ミミのお願い通りシルヴェスターの添い寝をしようとしたミシェルは、最初の頃、当人に断られて引き下がっていた。ミミに、仕事もあるだろうから、寂しそうな時限定とも言われていたからだろう。
 だが、ミミが居ないあの時、根を詰めて仕事をしそうなはとこに、ティベリオはミシェルをけしかけた。仕事は今落ち着いている、シルヴェスターは素直じゃないから押した方がいい、何なら押し倒しても構わないと。
 そして今押し倒されるんじゃないかとなっているのは自分である。
(あれ? 自業自得かな?)
 だらだらと汗をかきはじめたティベリオは。
「ちょっ、ミミ――――!」
 ミシェルの主に助けを求めた。幸い、ティベリオは何かあった時のためにシルヴェスターの部屋の近くに室を構えているため、近い。どうせ彼女は今日もそこにいるのだろう。
 かくして、良い感じの雰囲気ぶち壊し事件に至ったわけである。



 そして現在。
 腰をがっちりホールドし、捕獲者の目でこちらをガン見しているミシェルを見下ろし、ティベリオは困惑する。一体全体、どうしたというのか。昨日は結局、エリーと二人、シルヴェスターとミミと一緒に寝たという。
 そこで気づく。先程、シルヴェスターの寝室に居たのはシルヴェスターとミミだけだった。
「……エリーと寝なくて良いの?」
 ミシェルはふいと視線をそらした。どうやら、それが関係あるらしい。
「喧嘩でもした……わけないか」
 ミシェルはミミが元に戻ってもエリーを可愛がっている。エリーに優しかったのは、ミミが中に居るからだけではなかったらしい。
 案の定、後半の言葉にミシェルは頷いた。
 うーんと考え、そういえばと思う。帰国したエリーは、背伸びをしたがるようになっていた。ミミの国に行って、王女教育を受けてきた影響のようだ。だから、一人で寝ると言われたのかもしれない。
 だからと言って、ミシェルの部屋がないわけでもなし。
(それにしても、何かを思い出すような……)
 この腰にへばりつかれる感覚、覚えあるぞと記憶をひっくり返し。
(そうか、シーヴァがちっちゃい頃こんなんだった)
 一緒に寝てくれとは意地でも言わなかったが、ティベリオのことを掴んで離さなかった。まだ五才頃のことで、別に添い寝されてもおかしくない年頃だったというのに、恥ずかしがっていた。
 ということは、ミシェルはただ単に、添い寝をしてほしいだけなのか。そして、恥ずかしいらしい。ついつい、からかいの心がわきあがる。
「成る程、一人で寝るのが寂しいんだな」
 よしよしとミシェルの頭を撫でるティベリオは、相手が五才児ではなく戦えるお姫様だということを忘れていた。
 結果。
「ミシェル、悪かった! 悪かったから!」
 撫でてた方の腕を掴まれ、ベッドに押し倒された。強烈な照れ隠しである。あんまりアレなシルヴェスターをけしかけるためにあれこれ入れ知恵したのが不味かったか。相変わらずの無表情だが、目から圧を感じる。
 その時だ。
 コンコン、ガチャと意味のなさないノックの音が上がったのは。
「…………」
 一瞬、目が合った双方の時が止まり。
「ちょちょちょ、エリー! 閉めないで! 誤解!」
 返事も待たずに扉を開けた少女は、あっお邪魔でしたねと目をそらしながら扉をそっ閉じしようとしていた。
「ほら、ミシェル。エリーを招いてあげて!」
 今度は大人しく言うことを聞いたミシェルが扉を開ければ、エリーは枕を抱き立っていた。なんか見たことある光景だ。
「いやでも、空気が読めるエリーちゃんだから」
 なんとませた十歳児である。
「いやむしろ来てくれた方が空気読んでいるというか」
 訴えると、エリーに生ぬるい目で見られた。
「……ティベリオお兄ちゃんもヘタレなのね」
「いやシーヴァとは状況が違うでしょ」
「『すえぜん』食わぬは男の恥」
「いや据え膳にされかけてるのは俺というか、なんて言葉を知ってるの!」
 下町暮らしの悪影響か、エリーは覚えなくていい言葉まで知っていることもある。
 交渉の結果、エリーも一緒に寝てくれることになった。
「もう、しょうがないなぁ」
 そんなことを言うエリーを間に、三人並んで寝る。明かりを消したティベリオはふと気づいた。
(いや、俺的には解決してなかった!?)
 ミシェルの勢いに押されて忘れていたが、自分が誰かと寝るのを嫌がったのは。
(あの日のことを、思い出すからだ)
 二人側に居ることに安心したのか、エリーはすぐに寝てしまった。平和を感じさせる小さな寝息が聞こえてくる。
 けれど、それは却ってティベリオの心を乱した。嫌な汗をじっとりと感じる。それはティベリオの弱さであり、傷だった。
 『あの日』は、あの子とエリーを挟んでシルヴェスターと一緒に寝て。次もその日と同じ日が来ることを疑いもせず。そして翌日絶望的な光景を目にすることなった。
 そう、まさに明日だって、今日と同じ日を迎えられるとは限らないのだ。
(起きたらエリーがいなくなっていたら――――?)
 そしてまた、あの惨劇が繰り返されたら。
 そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。
(寝てる、よな)
 二人分の寝息が聞こえる。今日は自主警護でもしようか。
 そっと上半身を起こして――――。
「!?」
 くいっと服を引っ張られた。目を凝らしてみれば、どうやらエリーが服を掴んでいるらしい。しかも、眠ったまま。外そうと試みるが、起こさず解ける気がしなくて諦めた。こういうところ、どっかの王様にそっくりだ。もしかしてと小さな眉間に指を伸ばせば皺。思わず苦笑する。抜け出すのは諦めるしかないらしい。
(今はミシェルも側にいる。だから、大丈夫だ)
 自らに言い聞かせ、ベッドに潜り直す。すると、エリーの眉間が緩んだ。つられて、ティベリオの緊張も少しほぐれる。
 だからだろうか。いつの間にか、朝を迎えたのは。
(――――眩しい)
 朝日に目が覚め、ティベリオはまだ微睡むなか――――腕の中に温かさを感じ、かっと目を見開いた。視界に飛び込んだのは、カーテンを開けたミシェル。既に着替え終わっている彼女は先に起きたらしい。若干ほっとしかけて、んじゃ腕の中のこれ誰そういえば昨日エリーがとかごちゃごちゃ考えながら見下ろせば。
「ティベリオお兄ちゃん、起きた?」
 ちょっと照れたような様子の、エリー様である。
「!?」
 慌ててばっと身を放す。完全に事案だ。シルヴェスターに殺される。
「うおごめんエリー、俺寝ぼけてた」
「うん、寝ぼけてた」
 くすくす笑って起き上がるエリーは怒ってはいないようだ。
 どうやら、自分は久々に人と一緒に眠りについて、感覚が鈍っていたようである。
「……よく寝れた?」
「ああ、うん」
 エリーの問いかけに、少々肩透かしを食らったような心地でぼんやりと頷く。思ったより普通に寝られたことに驚きだ。自分で考えているより、傷は癒えてきているのだろうか。
(それはそれで、薄情だな。俺ってやつは)
 エリーの隣にあの子の姿がないのが、悲しくはあるのに。



「ねえ、ジェニーって誰?」
 執務の合間、半ば無理矢理休憩をとるように、エリーとミミとミシェルに誘われたお茶の時間。
 少し声を潜めるように妹に問われた内容に、シルヴェスターは軽く目を瞠った。
「まさかお前の口からその名を聞くことがあるとは思っていなかった」
 彼女とエリーが共に過ごしたのは、二年ほど。生きていれば、十歳。だが、自我が芽生える前の頃だけしか一緒に居られなかったから、誰かから聞かない限り知らないはずだ。
「ティベリオの妹だ。何があった?」
 ティベリオが席を外したタイミング、周りを窺う様子、躊躇いがちな表情。何かあったとほぼ確信しながら訊ねれば、エリーはぽつぽつと話始めた。
 昨日、ティベリオとミシェルと一緒に寝たこと。
「おい」
「気持ちはわかるけど話の腰折らないで」
 ミミに窘められ、口をつぐんで続きを聞く。
 うなされていたこと、その時「ジェニー」と呟いたこと。
 それを聞いて、シルヴェスターはああやはりと少し眉を寄せた。
 あの日。母とティベリオの母が殺された日。喪われた命はもう一つあった。母たちに代わりティベリオとシルヴェスターが添い寝していた筈のジェニーは、夜中に起きたのだろう。母恋しと、部屋を出ていってしまったのだ。あの、惨劇があった部屋に。
 自分も気づいて目覚められれば、妹の命だけでも救えたかもしれないのにと、ティベリオが悔やんでいた姿を思い出す。年上の余裕からか、いつも笑っていた彼が。初めて見せた弱さだったから、ショックにも似た思いを抱いたものだ。あの時から、彼は頼る存在だけではなく、守る対象にもなった。
 ティベリオは自分だけが辛いわけではないとでも思ったのだろう。すぐにまた弱っているところを見せなくなった。ここまでシルヴェスターを支え続けてきた。守られてばかり居るかと思っていても、結局何度も助けられた。
 普段は明るく振る舞っているが、心の内ではずっと妹のことを引きずって来ていたのだろう。
 話を聞いたエリーがしょぼんとした。
「無神経なことしちゃったなぁ」
 自身も家族を亡くした経験を持つエリーは余計に胸が痛むのだろう。
 シルヴェスターはその頭をくしゃりと撫でた。
「いや、むしろあいつには良い薬だろう。側に守るものが居ることは、恐れることではないと教えてやってくれ」
 のんべんだらりとした笑顔が似合うあの男に、悲しいだけの過去は似合わないのだから。



 ミシェルとエリーの強襲を受けたその日から、ティベリオの夜番は無くなった。シルヴェスター曰く、
『戻ってきたばかりで、何があるかもわからん。夜は暫くエリーの身辺警護に当たれ』
だそうだ。
(一緒に寝てたんじゃ、警護も何もなかろうに)
 それに、扉の外には別に警護が居る。はとこの遠回しの気遣いに、ティベリオは苦笑する。どうやら、シルヴェスターにはまだ自分が妹のことを引きずっていることなどお見通しらしい。
 幸い、ミミと親しくなってから、シルヴェスターは少し味方を増やした。過ぎた警戒を緩め始めたというのが正しいかもしれない。人に歩み寄ることを思いだし、側近も増え始めた。お陰で、警備の人数も増えたから、ティベリオ一人外れても問題がなくなった。ここはお言葉に甘えることにしようではないか。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんの小さい頃のお話、聞かせて?」
 枕を抱え寝るエリーが、わくわくした顔で見上げてくる。妹が生きていたら、こんな風に甘えてきたのだろうか。
(この子だけは、絶対に死なせない)
 固い決意を胸に密やかに抱き、ティベリオはシルヴェスターの話をし始めた。



「おい、最近エリーに余計なことを吹き込んでるようだな?」
 さあて今日も真面目に仕事をしようとシルヴェスターの執務室に来たティベリオは、部屋の主にぎろりと睨まれた。爽やかな朝だというのに、不機嫌マックスな男である。
「いいじゃん、可愛い妹に興味を持って貰えて。愛されてんじゃんお兄ちゃん」
「よりによってガキの頃の話はないだろう」
「エリー様のご所望ですので」
 慇懃無礼に言えば、シルヴェスターはふんと鼻をならした。エリーに望まれたと言われれば、強く出られないのだろう。
 そんなはとこをちらと見、書類を広げながらティベリオは口を開いた。
「……お前も覚えててくれたんだな。ジェニーのこと」
 急に真面目な話をしたからだろう。シルヴェスターは少し意表を突かれた顔になって、半ば目を伏せた。
「当たり前だ。あいつは俺にとっても妹のようなものだ」
 確かに、シルヴェスターはエリーと同じぐらいジェニーを可愛がっていた。たった三年ほどのことだったが、今でも四人、あるいは六人で過ごした時間を思い出す。
 とはいえ、悲劇の日以降、腫れ物を扱うように互いにあの日のことには殆ど触れてこなかったから、こうして妹のことを話すのは実に久し振りだ。
 なんだかしんみりしてしまったので、ティベリオは話題を変えた。
「そういや、悪かったな。この間邪魔しちゃって」
 ミシェルの襲来に、ミミに助けを求めた日のことである。あの次の日は調子が狂ってて、からかいそびれていた。
「全くだな」
「んで、ミミにプロポーズはできたわけ?」
 にやりと笑って尋ねる。
 まあ、あれでプロポーズができなかったら流石に正真正銘のヘタレだからそれはないよなと思っていたティベリオは、それが自らの首を絞める質問だということを忘れていた。
「当然だ。だから、次はお前の番だぞ」
 ですよねー。
 でも、今のティベリオには強力な候補がいる。
「やっぱりミシェルかな。ミミに許可もらえればだけど」
 エリーを間に挟んでだが、ミシェルに対して共に寝る耐性ができた。彼女自身強いし、ティベリオにとっての泣き所にはならない。等々、ミシェルはティベリオの希望条件を揃えている貴重な存在だ。
「あいつはミシェルを愛さないと駄目だと言っていたぞ」
「大事にはするよ? 超絶信頼できる味方だもん」
 はじめ、ティベリオにとってミシェルは警戒対象だった。シルヴェスターの一番の泣き所であるエリーに近づいたのだから、怪しく思わない余地がなかった。ところがどうだ。様子を窺っても、シルヴェスターへの無関心っぷりがすごく、ただひたすらにエリーへの献身がすごい。むしろ、忠義尽くしちゃってる感があった。
 シルヴェスターが心許している以上、自分は猜疑心を持ち続けるべきだが、気がつけば緩んでしまっていたのは。
(同族意識があったんだよな、きっと)
 ミシェルがエリー(ミミ)に向けるものが、自分がシルヴェスターに向けるものと近しいものであると、気づいてしまったからだ。
 少なくとも、エリーを守ってもらえるのなら、有力な味方だ。シルヴェスターが心許せる味方は、限りなく少なかったあの時、一人でも多く居た方がよかった。そして実際、内乱が起きたときに助かった。ミシェルが居なければ、エリーは無事ですまなかったかもしれない。
 そして正体が知れた今、心から信頼できる存在だ。そしてまた、頼れる仲間である。また、妹が一人増えたような感覚だった。
「ミミにはシルヴェスターがいて、エリーも大きくなれば結婚する。ミシェルの側にだって、誰かいてもいいだろ?」
 ミミがいて、エリーがいて、シルヴェスターかいて。今だって一人ではないが、ここぞというときの相手が居た方が、心強いだろう。
「まあな。……しかし、いつ何時惚れた相手が出てくるかもわからんぞ」
「あらやだどさくさに紛れてノロケてるよこの王サマ」
 まぜっかえしたら睨まれた。
「そういえば後宮の姫、数国から国に戻さずお前に降嫁させろって要求が来てたな」
「ちょっ、それ断る方向だったろ!?」
 ミミの兄との一件から、人質まがいに他国から降嫁させる慣例を無くす話になったのだが、大国と繋ぎを持っておきたい何国かから、第二妃か王の近親に降嫁させろと言われているのである。
 一度嫁に取った以上適切な対応は必要だが、ティベリオへの降嫁は個人的な理由の他に、他国からの自国内への干渉を避けるために見送った。だというのに、暴君はこんなことを言う。
「取り敢えず何人か会うだけ会ってみろ」
 本当に強制的に見合いをさせそうなシルヴェスターに、ティベリオは茶化すのはやめた。
「本当、俺はいいんだよ。勘弁してくれ」
 不用意に身内は増やしたくない。自分の力は限られている。守る対象は少ない方がいい。シルヴェスター、エリー、ミミ、ミシェル。自分の小さな手は、四人を守るので精一杯だ。それに、万が一相手に愛されても、返せる心がない。また、できるだけ身軽な方がいい。ミシェルであれば、例え自分に何かあったとしても、最上の存在、ミミがいるから後顧の憂いがない。
 頑なな意志を汲んだのだろう、シルヴェスターはふんと鼻をならすに止めた。
「ま、他の連中にとやかく言われる前にプロポーズするんだな。俺が何も言わずとも、お前に早く身を固めて欲しいと思う連中はいるんだ」
 成し遂げた余裕からか、口の端を吊り上げて忠告するシルヴェスターに、ティベリオは胸を張った。
「わかってるさ。今日ミミに許可を取ってプロポーズするよ」
 一人で寝るのが寂しいと、頼られるくらいだ。ミシェルに嫌われてはないだろう。似た者同士だから、きっと受け入れられる。妙な確信があった。
 あとはタイミングだが、エリーが寝た後に話せば良い。
 そう思って、夜、ベッドに座るミシェルと一緒にソファで待っていたら。
「今日から一人で寝ます!」
 エリー様はそう宣言なされた。タイミング良すぎである。
(シーヴァ、あいつ、エリーに吹き込んだな)
 もろバレである。どうせ、寂しくなったら俺のとこに来いとか、どさくさ紛れにお兄ちゃん風吹かせたのだろう。
 了解〜と手を振って見送ったティベリオの横で心なしかしょんぼりしていたミシェルは、はっとしたようにティベリオをガン見した。まるで、追い出されるのを警戒しているようだ。
 ティベリオはソファから立ち上がり、ベッドまで歩いていってその頭をぽんと撫でる。
「心配しなくても、追い出さないさ」
 それでもじいっと見られた。疑わしそうに見られているのは気のせいか。
 ぽりぽりと頬をかくと、ティベリオは咳払いした。やはり、こういう話をしようとすると、流石に自分でも照れが入るらしい。
「ミシェル、家族になろう」
 ぱちぱちと瞬くミシェルは、縦にも横にも首を振らず、どこか不思議そうにティベリオを見ている。まあ、それもそうだろう。ミシェルにとっては寝耳に水の話だ。
「俺は家族として君を大事にする。一緒に寝てくれと言うのなら、添い寝もしよう。――――共に、大事な人たちを守ろう。ミミも、エリーも、シルヴェスターも」
 ミシェルは首を傾げた。イエス・ノーで答えられる質問にしてくださいと言いたげのあれだ。あれ、これって答えられる質問じゃ。
(まさか遠回しに断られてる!?)
 冷や汗をかいたところで、ミシェルはそわそわとしはじめた。それが何かを探すようだったので、ぴんときて紙とペンを渡す。
『父・母・妹・叔母・娘・孫』
 書いた紙とペンをずずいと差し出された。
「…………」
 ほぼ女性を指す言葉のため、自分がどれに当てはまるのか問いたいらしい。妹はともかく、他の選択肢は何だ。特に父。なってくれと言われたらなる気なのかも気になるところである。
 家族という言い方が不味かったと、ティベリオはペンを受け取って書き足した。
『妻』
 丸をつけて、ミシェルに渡す。
「俺の奥さんになってください」
 頭を下げる。暫しの間の後、くいくいと服を引っ張られたので顔を上げると、ミシェルはこっくりと頷いて見せた。
 承諾を受けて、ティベリオはほっとする。これで結婚問題も何とかなった。
『お前は変なところで詰めが甘い』
 一連の事件の後にこの話を聞いた後、シルヴェスターは心底呆れたようにそう言った。



 ミシェルは寝起きが良い。朝早く起きるのも得意だ。
 ぱちりと目を覚まし、むくりと起き上がる。てきぱき着替え、髪を結い、化粧を施し。いつもなら次はカーテンを開けるのだが、その日は未だベッドで眠るティベリオの寝顔をじっと見つめた。
『奥さんになってください』
 それを何て言うか知っている。求婚と言うやつだ。
(変な、ヒト。私が人形だと、知っているのに)
 思えば、人形と判明した直後も、接し方は何ら変わらなかった。エリーもシルヴェスターも同様に変わらなかったが、騎士団長は戸惑ったようなぎこちない反応を見せた。多分、それが普通なのだ。あるいは、襲撃してきた人間たちが見せたように畏怖を抱くか。
 なのに、結婚を望むとは、本当に変な人だ。結婚、つまり、いつも一緒に居るということで――――そこまで考え、それは無理だと思考を訂正する。ミシェルとて永遠に動くモノではないが、少なくともティベリオよりは長生きする。いつか、ミシェルは彼を見送らなければならないのだ。
 しかも、恐らく彼は。
(私と、一緒。大切な人が、守れればいい)
 この身を挺してでも。
 ミミを守ってくれるのは嬉しい。エリーを守ってくれるのも嬉しい。シルヴェスターは、まあうん嬉しい。
 けど、何故か、何かが不快だった。心というヤツが変な動きをした気がして、ミシェルは首を傾げる。
 不意にもぞりとティベリオが動いた。
「!」
 ミシェルはぱっと身を翻し、カーテンを開ける。
「んー、おはよう、ミシェル」
 何食わぬ顔で振り返ったミシェルに、上半身を起こしたティベリオは寝ぼけ眼で笑いかけた。親しい人にするように。
(本当に、変な、ヒト)
 カーテンを開けて日が当たるようになったせいか、ぽかぽかする。今日も天気が良さそうだ。



 ミミが元に戻ってから、ミシェルの立ち位置は変わった。『ミシュリーヌ姫』から、『ミシュリーヌ姫にそっくりな従妹』になった。話し相手としてやって来た設定だ。だから、雑用の類いをする身分ではない。
 しかし、何もしていないのは落ち着かない。ミミが戻ってくる前は、いつ戻ってきても良いようにミミの部屋を調えていたから、退屈はしなかった。けれど、戻ってきて数日、ミミは王妃教育が始まり、エリーもこの城での淑女教育が始まったから、ミシェルは暇をもて余し、エリーの部屋を掃除したりミミの部屋を掃除したりしていた。
 そこで新たに下った命は「ティベリオの部屋の改革」をすること。
 そもそもの始まりは、奥さんとは何をすれば良いのかミミに聞いたことだ。問われたミミはシルヴェスターに丸投げした。シルヴェスターはヒトそれぞれだと答えた。そこでミミが提案したのが、先の命だ。今はミシェルの部屋は離れたところにあるので、ティベリオの部屋に引っ越してしまえとのことだ。
『どうせならミシェルの好きに変えて良いよ』
 ティベリオから許可を得たので、ミシェルは少ない荷物を移動し、ソファのカバーを変えたりクッションを作ったりして過ごしていた。
 数日かけて調えた部屋を見渡し、よしと頷く。文机のへたったクッションも変えた。膝掛けも作って背にかけた。高さは大丈夫だろうかと座ってみたが、体格が違うのでよく分からない。そういえば机に突っ伏して寝こけていたことがあったなと思い、クッションを持ってきて寝てみる。日差しで暖かい部屋にそよ風が頬を撫でてく中のお昼寝は、存外に気持ちいい。もう一つクッションを作ろう。
『俺の奥さんに』
 自分は彼の言う「奥さん」をやれているのだろうか。
 何故、人形の自分なのか。それが不思議でしょうがない。
 そもそも、ティベリオにとって、自分は一番初めは警戒対象だったはずだ。周りの誰も彼もを警戒していたミシェルは、この男が警戒心を人当たりのよさで何重にもして隠していたことに気がついていた。
 けれどいつの間にか、彼の警戒は解かれていた。むしろ、襲撃あたりから、過保護にすらなった。
 襲撃のあった日。
 賊を撃退し、シルヴェスターも遅れて到着し、ほっとしたのも束の間。
『早く医師を呼べ! ティベリオ、ミシェル、来い!』
 怖い顔をしたシルヴェスターに呼ばれた。
(引き、離、される……?)
 とっさに首を横に振り、気絶したままのエリーの手をぎゅっと握った。
『バカ者。命令だ』
 険しい顔でつかつかと近づいてくるシルヴェスターに身構えていたら、すっと間に入るものが居た。ティベリオだったことに、ミシェルは驚いた。
『まあまあ。ミシェル、手当ての間だけでも離れないと』
 手当て、と聞いてミシェルは首を傾げた。すぐに飲み込めないミシェルに、ティベリオは言葉を足す。
『シルヴェスター王はね、怪我をした君のことを心配してるんだよ』
 そこでやっと気がついた。シルヴェスターは医者にミシェルを診せようとしているだけなのだと。わかりづらいヒトだ。
 しかし、それでもミシェルは診察を受けるわけにはいかない。ヒトではないと気づかれてしまうかもしれないから。
 今度はゆっくりと首を横に振るミシェルに、ティベリオは助言した。
『医者に診て貰うか、自分で手当てするか、どちらかしないと納得しないよ?』
 なるほどとガウンを裂こうとしたら、止められた。
『なんでそんな漢らしいのかなっ!? 誰か手当て道具を!』
 エリーの部屋で一人手当てし終えたあと、様子を見に来たティベリオは、ミシェルの頭を軽く撫でて言った。
『エリーのことは、今度こそ俺らが守る。だから君は、エリーの側に居ることだけを考えてあげて』
 その感触は、ミシェルを大事に思ってくれている人たちのそれに、よく似ていた。だからかもしれない。彼の怪我が気になった。
 視線に気がついたティベリオはへらりと笑った。
『ああ、大丈夫、大丈夫。俺のはかすり傷』
 ミシェルは痛みを知らない。けれど、人は酷い傷を負うと死んでしまうことは知っている。しかし、彼はなんてことのないように、さらりとかわした。
 またねと去るその背に、声を持たないミシェルがかけられる言葉もなく。
 木で出来てるはずの胸に何かが入り込んだ気がして、ミシェルは胸元を押さえたが、それが何なのかはわからなかった。
 それから数日後、シルヴェスター王が言い当てるまで、誰もミシェルが人形だということに気がつかなかった。
 そうして、人形だと判明しても、シルヴェスターも、エリーも、ティベリオも、態度が変わらなかった。むしろ、怪我人だと過保護にされていた。
 騒動のあと、ミミがエリーと連れだって自国に帰り、寂しくなるかと思えば、ティベリオはシルヴェスターにちょっかいをだし、ミシェルをかまい、城を明るく照らしていた。人形で、縁も特にあるわけでないミシェルに、彼はまるで近しいヒトのように接した。
 これが親しい仲と言うのだろうと添い寝を頼んだら、断られた。ちょっとむっとした。親しければ一緒に寝ることもあると教えた張本人が。けれど、理由がわかって、納得した。例えばエリーを失うことがあったらと考えると、ティベリオの気持ちもわからなくはない。
 でも、相手は自分だ。並みの人間より強くて丈夫だ。
 そうして、気づく。
(そう、ね。だから、彼は私を)
 人のように死ぬことはない自分を結婚相手に選んだ。
 ガタッ、と音がして目を開く。気づけば、突っ伏したまま寝ていたようだ。
「あ……」
 いつの間にか部屋に入ってきていたティベリオは、ゴミ箱を蹴飛ばしてしまったらしい。慌てた様子で直す。
 一瞬見えたその顔はどこか怯えているような、不安そうな気配が少し残っていて。
(あぁ、やっぱり)
 憶測を、確信に変えた。彼は人形だから、私を選んだ。動揺しているのは、寝ていた自分が倒れた母君と重なって見えでもしたのだろうか。
「ミシェル、起こしてごめん。でも、ここで寝るなら寝室に」
 首を横に振り振り、ミシェルは立ち上がり部屋を出ていった。
「……? うたた寝しているところを見られたのが恥ずかしかったのかな?」
 だから、一人残されたティベリオがアホな勘違いをしていたことなど知らない。



「なんだ、避けられてるじゃないか。もう振られたのか?」
 書類と格闘するのが怠くなる、天気の良い午後。だというのに、いっそ生き生きと言ったシルヴェスターに、ティベリオは半眼を向けた。この小舅め。
「確認したけど、違うって言って(書いて)貰えたからね!? 願望が見せた幻何かじゃないよ!? なのに何で逃げるんだよミシェルぅぅ」
 ずるずるべしゃと机に突っ伏せば、インクが顔についた。踏んだり蹴ったりだ。
 昨日の夜、初めて、ミシェルは部屋に来なかった。まあそういうこともあるよなと、その日は普通に一人で寝た。ちょっと寂しかったのは余談である。
 けれど、今日。ティベリオが近づくと逃げるのだ。初めは気のせいかと思ったが、午前の間だけで四回。
「照れ隠しかな、照れ隠しだよね!? 今更だけど!」
「知らん。本人に聞け」
「逃げるから聞けないんだよー!」
 お茶の時間になったら流石にくるかなと思ったが、お茶を整えるなりさっさと部屋を出ていってしまった。もう項垂れるしかない。
「あらまあ、避けられてるわね」
 一緒にお茶を飲んでいたミミが悪気ない一言でティベリオのハートを抉る。
「やっぱこれ避けられてるの? 何で?」
「流石にそればっかりはミシェルに聞かないとわからないわ」
 主とはいえ、何でもかんでも以心伝心というわけではないらしい。
 ティベリオは困ったなと頭をかいて、ミミに頼み込んだ。
「聞いておいてくれるかな。実は求婚が嫌だったとかだったら悪いしさ」
 無理強いするつもりはない。だから、確認しておきたい。
 その気持ちを汲んだのか、ミミは請け負ってくれた。
「聞くには聞いておくけど、ミシェルが教えても良いって言ったらね」
 探してくると席を立ったミミを、よろしく頼むと見送った。



(また、避けてしまったわ)
 ミシェルは落ち込んでいた。無表情ながら、落ち込んでいた。どくどくと脈打つ胸に握り込んだ手を当て、項垂れる。
 別に、今になって求婚が嫌になったわけではない。
 むしろ――――。
(ダメ、この感情を、認めては、ダメ)
 この感情はいつの間に育ってしまったのだろう。これ以上側に居ると、もっと育ってしまいそうだ。だから彼を避けた。
(初めは、ただ、ヘンなヒト、だったのに)
 家族になろう、なんて言い出すから。
 その言葉を頭から追い出したくて、ミシェルは首を横にぶんぶんと振った。
(勘違い、しちゃダメ。あの人が求めたのは、人形の、強い私――――)
「居た、ミシェル!」
 聞きなれた声であるというのに、ミシェルは驚いて肩を揺らした。いつもなら声をかけられる前に気づくというのに、動揺しているらしい。
 振り向けば、やはりミミ――――本物のミシュリーヌ姫がそこにいた。自分と同じ顔なのに、笑顔が眩しい主。
「バスケット持ってきたから、一緒に食べましょ」
 尋ねる言葉はなかったが、何故追いかけてきたのかわかった。やはり、態度から察したのだろう。
 手を引かれて、ミミに与えられた部屋に行く。
 カップとお菓子を並べて、ミミは口を開いた。
「ティベリオを嫌いになった訳じゃないみたいね」
 その通りなので、ミシェルは頷く。
「じゃあ、そのことをティベリオに伝えても良い?」
 これにもまた頷いた。むしろ、自分は上手く誤魔化せなかったから、伝えて貰えれば誤解されずに済むと、ほっとする。
「……何か、困ったことでもあるの?」
 言葉はなくとも、伝わってしまうらしい。
 頼れる人はミミしかいなくて、すがるように見つめた。明確に意志を伝える。
(私、人に、なりたくない)
 ミミは目を見開いた。どうして、という表情をしている。
(人になってしまったら、この身は脆くなる。それに、あの人に、突き放されてしまう)
 じわり、出る筈のない涙が滲む。限りなく人に近づいている証拠だ。きっと、うたた寝をしてしまったのもその一つ。
 確かに、この身は元から限りなく人に近いが、それでも人形である。出血をしてもすぐ止まるし、傷は自然には治癒しない。人に似せた人形だ。けれど、どうしてか、人形である筈の身が本当の人間になりつつあることを、ミシェルは肌で感じていた。
「ミシェル、貴女ティベリオに恋をしているのね」
 ミミの言葉に、ミシェルは否定したくてぶんぶんと首を横に振った。
(知ら、ない)
 だって、認めてしまったら、本当に人間になってしまうような気がして。
 ミミは立ち上がり、いっそ感情を振り払うように首を振ったままであったミシェルをそっと止めた。それから、手を両手で包み込むように握りしめる。
「どうか恐れないで。人は貴女が思うほど脆くはないし、逆に人形だって頑丈なわけではないの。それに、ティベリオだって貴女が人になっても突き放したりしないわ。いえ、もう突き放せない、が正しいかしらね」
 そんなことはないだろう。だってまだあの人は大切な人が亡くなることを恐れている。だから昨日寝ている自分を見て過去を思いだし、怯えの顔を見せた。夜うなされることはなくなっても、恐れは消えていない。枕元に剣を置いているのは、身を守るためではなく、大切な人を守りに行くためだ。だから、ミシェルを大切な人にすることはない。彼の両手は今の大切な人たちで手一杯だ。
 そして自分は彼に守られたいわけではない。守られる存在になってはいけないのだ。
『共に、大事な人たちを守ろう』
 それを叶えることだけが望み。
 強い意思を持ってミミの目を見つめる。
「ミシェル……」
 ミミは瞳を揺らし――――きっと顔を上げた。
「私ちょっとティベリオに抗議してくるわ。全く、プロポーズするにももうちょっと言葉を選べなかったのかしら」
 ミミが何に怒っているかわからないミシェルは戸惑う。それに。
(普通のプロポーズとは、違うと思うの)
 だってティベリオはミシェルのことを特別好きというわけではないだろう。
 不意に、ノックの音が上がった。招く間もなく、バーンと扉が開いた。
「話は聞かせてもらったわ!」
 シルヴェスターたちとお茶を飲んでいたはずのドヤ顔のエリー様だ。護衛でついてきたらしい兵士が申し訳なさそうな顔で外からそっと扉を閉めた。姫君よりよほど慎ましやかな所作だったのは余談だ。
 すたすたとミシェルたちの元に来たエリーは、座ったままのミシェルの肩にぽんと手を置き、訳知り顔でうんうんと頷きながら言った。
「確かにティベリオお兄ちゃんはヘタレよ。シルヴェスターお兄ちゃんといい勝負だわ。全く、ダメな男どもね」
 ミシェルの頭の中で、「シルヴェスター=ティベリオ=ヘタレ」の式が浮かんだ。なるほど、ダメだ。
「どんな告白の仕方をしたか知らないけど、どうせ好きや愛してるの一言も言って貰えなかったんでしょう?」
 確かに愛してるとは言われなかったので、こくりと頷く。
 エリーは盛大にため息をついた。
「やっぱり。そりゃあ不安にもなるわよね」
 そうなのだろうか。「好き」「愛してる」と言われれば、人になる不安はなくなるだろうか。口にすれば、あの人を不安にさせないだろうか。なんて便利なおまじないなのだろう。
 エリーはミシェルが「愛されているのか不安になっている」と勘違いしているだけなのだが、知らないミシェルは真面目に考える。
 勘違い爆走中のエリーは、ノリノリで人差し指を立て、ぱちりとウインクした。
「ここは! ミシェルの方から改めて告白しちゃおう」
 ぱちぱちと瞬くミシェルに、エリーは畳み掛ける。
「やっぱ、ヘタレ男は女の方が引っ張ってあげないといけないのよ。お姉ちゃんが可愛らしく好きって言えば向こうだって言わずにいられないわ!」
 ぐっと拳を握ったエリー、ミシェルを見てはたと気づき、言い直す。
「好きって手紙で伝えれば、言わずにはいられないわ!」
 成る程、手紙。さっと手持ちのメモを取り出したら、エリーとミミの双方に止められた。
「雑紙はちょっと!」
「便箋にしてあげて!」
 ミミがくれた便箋に、愛していますと一言書く。
「うー…ん、なんでだろう。すごく上手な字なのに、漢らしさを感じるのは」
「何か添えましょうか」
 唸るエリーと苦笑するミミに、何かダメなのかと首を傾げる。
 エリーはぽんと手を打った。
「そうだ! 温室作ってくれたんだよね! そこからお花貰って、添えよう」
「いいわね!」
 エリーに手を引かれ、付き添いの兵士と共に温室へ向かう。ミミは二人が温室に行ったことをシルヴェスターに知らせてくるとのことだ。



 ミミからミシェルに嫌われたわけではないことを聞き、ティベリオはほっとした。しかし、それなら何故避けられるのかがわからない。
「ひょっとして、照れてたりして」
「それはないわね」
 冗談混じりに言った言葉は、ミミに笑顔で切り捨てられた。地味に傷ついた。
「――――で。俺を避けてる理由って、聞いた? もしくは、ミミなら思い当たること、ある?」
 ミミは女性特有の、どこかミステリアスな笑みを浮かべる。
「本心なんて、当人にしかわからないことよ」
 それもそうだ。ましてや、相手はあのミシェル。
「ねぇ、ティベリオはミシェルのこと、どう思ってるの?」
「へ?」
 思いがけない質問に、間抜けな声が出た。
「結婚したい理由は聞いたわ。けど、どう思ってるの?」
 ミミの顔にあるのは好奇心ではない。ミシェルと同じ顔で、真摯に問う。
 だから、ティベリオも真面目に答えた。
「もう身内という認識でいるよ。確かに、俺の事情も大いにある。けど、あの子を選んだのはそれだけじゃないよ」
 ミミは気持ちを推し量るようにじっとティベリオを見つめ、問いを重ねる。
「ミシェルはもう少ししたら人間になる、と言っても、気持ちは変わらない?」
「!」
 不意にもたらされた情報に、驚いて声が出なかった。
(ミシェルが人間になったら……なったら……)
 はたして、あの子は真っ当に人間の生活を送れるのだろうか。人形の時の癖で重いものを運ぼうとしたり平気で毒味したりしそうだ。やだ心配。やっぱり自分が嫁として引き取って正解だと思うティベリオだ。恐ろしくて目の届かないところに嫁にやれない。
「夫と言うよりお兄ちゃんね……」
 呆れた様子のミミの言葉にぐうの音もでない。
「……人になること自体はいいの?」
「えっ、何その質問。人形フェチってわけじゃないんだけれど!?」
「むしろそんな発想はなかったわよ」
 窺うような様子から、ティベリオはミミの聞きたいことを悟った。
(喋りやがったなアイツ)
 大方、シルヴェスターから自分の過去のことを聞いたのだろう。
 勝手なはとこに、やれやれとため息をつき、次いでティベリオは笑みを浮かべてぽんとミミを撫でた。
「俺は人でも、人形でも、大差はないと思ってる。人形だって傷つくし、事実、以前怪我したでしょ」
 昨日、寝ているミシェルを見た時、とっさに呼吸を確かめようとしてしまった。何てことはない、ただのうたた寝だったのだが、トラウマがそうさせた。つまり、もうミシェルはそういう存在なのだ。異性に対する愛とか恋とか、そういうことは言えないけれど。守りたい存在になってしまっている。
 ミミは嬉しそうに笑った。
「なら、ミシェルにそう言ってあげて」
 ティベリオははたと気づく。
「あれ。もしかして、避けられてる理由ってそれ?」
「さあ、私の口からはなんとも」
 ああこれは十中八九そうだなと頭を抱える。
(っだぁ、シーヴァ余計なことを!)
 思い切りはた迷惑な勘違いであるのだが、ティベリオはわからない。
 二人の会話に、割って入る声があった。
「ミシュリーヌ様! あぁ、ティベリオ様とご一緒でいらっしゃいましたか!」
 緊迫感を帯びた古参の騎士の声に、駆け寄ってくる様子に、ざわりと粟肌が立つ。
「――――何があった?」
「賊を裏庭で捕まえました。念のため王族様方の安否確認を行っておりまして……エリー様はご一緒では……?」
 はっとミミと顔を見合わせる。彼女は蒼白になって言った。
「エリーとミシェルが、今温室にいるわ! 付き添いの騎士が一人いるけれど……」
 ということは、外だ。そちらにも賊が入り込んでいないとも限らない。
「温室に行ってくる。ミミは彼と陛下のところへ!」
 言うが早いが、駆け出した。ミミの切実な声が背を追う。
「頼んだわ!」
 大袈裟だと言うにはこないだの襲撃が鮮明だ。少しでも時間が惜しく、途中、緊急用の馬を得て走らせる。
(二人とも、どうか無事で――――!)



 鋏の入った籠を片手に温室にきて、さあ花を選ぼうというところでエリーが声を上げた。
「しまった! 私、花言葉よく知らないや」
 それなら知っていると伝えれば、エリーはぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、『好き』とか『愛してる』とか、そういう花言葉の花、ある?」
 探したが、なかった。
「ちょっ、何のために温室用意したのお兄ちゃん!?」
 ツッコむエリーからシルヴェスターに対する何かのパラメータが下がったように見える。『そんけい』とか『いけめん』とか『お兄ちゃん』とか、そんな感じの。
 ふと、ミシェルの目に花が止まった。ピンクの小さな花が集まって、まるで一つの花を形成しているような、可憐な花だ。『大切な人』という花言葉だったはず。
「その花は? 」
 横から覗き込むエリーに花言葉を書いて見せると、ぱっと顔を輝かせた。
「変化球もいいかも!」
 ミシェルは鋏で二輪摘む。そして、一輪をエリーに差し出した。
「私に?」
 驚き己を指差すエリーに、こくりと頷く。主を助け、自分にも慕ってくれ、さらにはこうして心配して助けてくれる。ミシェルはエリーが大好きで、大切な人の一人だ。
「えへへ、えへへ。ありがとう」
 照れてれとお礼を言うエリーが愛らしくて、ミシェルも嬉しくなる。
「あのね、ティベリオお兄ちゃん、ミシェルお姉ちゃんに嫌われたんじゃないかって落ち込んでるの。だから、きっと凄い喜ぶわ」
 あの人も、エリーのように喜んでくれるだろうか。
 知らない感情で、胸の内が震えた気がして、無意識の内に胸を押さえる。
 用が済み、温室の外に出ようとして、首筋がぴりりとした。
 ふわふわした温かい心地は消え失せ、嫌な予感が胸中を満たす。とっさにエリーを温室の中に押し戻し、扉を背に閉めた。
 黒づくめの男が近くの茂みから二人でてきた。どちらも短剣を手にしている。ミシェルは素早く鋏を手にした。籠を投げ捨てた際、花が落ちたが構っていられない。
「ミシェルお姉ちゃん!」
 焦った声音でエリーが呼ぶが、開ける気はないし、退く気もない。中の護衛がエリーを引き留めてくれるだろうから、外側の扉さえ守れればいい。
 せめて一人。出来れば二人。
 倒せるだろうか。
 ――――倒さなければ。
 大丈夫、まだ完全に人になったわけではない。
(この身をかけて、守り抜く力ぐらい、あるはず)
 敵二人が同時に動く。
 ミシェルは迎え撃たんと構える。
 が――――。
「っ!」
 どっ、と音がし、一人が倒れた。
 何事かとミシェルともう一人の男が倒れた男を見れば、横から首に矢を受けた男が絶命している。
 素早く左手側に顔を向ければ、どっ、とまた音がした。
 放ち手は、ティベリオだった。馬を駆けさせ、さらにもう一矢。二人目の男も二矢を受け、倒れた。
「ミシェル!」
 少し手前で馬から降りたティベリオは、ミシェルに駆け寄ると、厳しい顔で半ば怒鳴るように言った。
「何を考えているんだ!」
 びっくりして、フリーズして。
 手から鋏がこぼれおち、拾う間もなく、抱き寄せられた。まるですがるような包容。深いため息が間近に聞こえる。息が震えていた。
「無事で良かった」
 優しい声音なのに、胸が締めつけられるように苦しい。それは多分、彼の痛みを感じとったからなのだろう。
 ああ、悪いことをした――――心配をかけてしまった。
 その思いからか、涙が滲み出る。
 すんと鼻を鳴らしたら、ティベリオはばっと体を離して潤んだ瞳を見、慌てた。
「わあ、怒鳴ってごめん。怒った訳じゃないんだ。ただ心配して」
 そっとミシェルの頬に触れて、悲しそうに目を細める。
「頼むから、もっと自分を大事にしてくれ。一人で敵に立ち向かおうとしないで。ミシェルが傷つくと皆悲しむよ」
 よくわからない感情で胸がざわりとした。
(それを、貴方が言うの?)
 大切な人たちと比べて自分自身の命を軽んじている人が。
「悲しませたくはないでしょ? こういう時は、ミシェルも一緒に逃げるんだよ」
 何か勘違いしたようなティベリオの言葉に、ミシェルは自分の感情を知る。ぱっと取り出したメモに殴り書いて、ずいと掲げて見せた。
『貴方だって自分を大事にしてない』
 これは多分怒りだ。悲しみもあるだろうが、怒りだ。
 ティベリオは面食らった顔をしたが、すぐに苦笑した。
「俺はいいんだ。シーヴァにはミミがいて、ミミにはシーヴァがいて。エリーには二人がいるし、この先特別な人も出来るだろう。そしてミシェルにはミミがいるし、俺が一番大切にするよ。俺自身は誰の一番でもないから、大丈夫」
 そんなことを、疑いもなく笑って言われて。
 まず零れ落ちたのは大粒の涙。
 悲しくて。
 怒りもあって。
 どちらの感情も強くて胸が痛くて。
 口を開かせたのは、意志よりもずっと奥にある心。
「好、き」
 初めての発声はもどかしいぐらい辿々しい。それでもミシェルは言い募る。
「私は、貴方の、こと、が、好き……」
 痛みを吐き出すようかのそれは、きっと産声。ミシェルはたった今、人として生まれ堕ちた。
 置いてきぼりにされるのは嫌だ。死に急がれるのはもっと嫌だ。同じ時を同じように生きていきたい。欲を認めてしまったミシェルは、人形ではなくなってしまった。けれど、どうしようもない。どんなに足掻いても、心は消せない変えられない誤魔化せない。
「貴方、が、亡くなっ、たら、私の、心も、逝く、わ」
 ミシェルを人たらしめたのはティベリオだ。だからきっと自分は、彼が亡くなったら果ててしまうだろう。けれどそれでいい。それがいい。
 でもそれは自分勝手な望みで、彼が望んだことではないのもわかっている。彼にとってはただの重しだ。いつも明るい笑顔を見せてくれるその顔が、今は悲痛そうなものになっていることが、それを物語っている。
 だから、返す言葉は待たない。
「! ミシェル!」
 横をすり抜けて駆けていこうとしたら、肩を捕まれ戻された。そのまま、温室とティベリオの腕に囲まれてしまい、逃げ場がなくなる。
 ティベリオは扉に両手をついたまま、項垂れるように深くため息をついた。
「好きといってくれるなら、何で逃げるの」
「私は、もう、貴方の、条件、満たして、ない……」
 涙が止まらないから、ティベリオがどんな顔をしているかはわからない。このまま見ないで走り去ってしまいたい。
 しかし、逃がすまいとするかのように、腕の中に包まれてしまった。
 優しい声が、静かに降ってくる。
「変わらないよ。条件、というとおこがましいけれど。ミシェルという存在は、今でも俺の中では変わってない」
 それはミシェルが人になったと知らないからだ。
 何とか顔を離して言おうとしたら、指先で止められた。
「ごめんな、俺が未熟だから不安にさせて、傷つけてさえしまったね。でも、弱さを含めてミシェルが大切だということ、わかって欲しい。ちゃんと守るから」
 悟っているかのような――――いや、実際悟ったのだろう。瞬きで涙を溢して彼の瞳を見れば、優しい笑みの中に覚悟が窺える。
 けれど、守ってもらうのがミシェルの望みではない。
「嫌。それなら、盾に、なる、方が、本望」
 口を幾度か空回りさせ、吐き出されたティベリオの声は、掠れていた。
「それは無理だ。――――ごめん」
 聞き分けるよう願うように、額を寄せられる。
 多分、それはこの人が初めて見せた、甘えなのだろう。
(こんなの、ずるい)
 きっとティベリオが真に自分に願うのは、これだけだ。つまり、唯一叶えてあげられる望みだ。だからミシェルは、容易には退けられない。
 不意にガタッと音がした。
 ティベリオはさっと動いて背後にミシェルを隠し、音がした方向――――温室を睨む。その手は腰の剣に添えられていて、即座にぴんと張り詰めた空気になる。
 しかし。
「…………エリー? あ」
 ぽかんとした様子でティベリオが呟く。最後の「あ」は存在を忘れていたことを短く物語っていた。
 そう。音の発生源は、ティベリオがくるなり植物の影に姿を隠したエリーとその護衛の騎士である。彼らは気まずそうにすすすとさらに身を隠した。
 無言で温室の扉を開いたティベリオに、揃って目をそらしながら言う。
「こっちは気にしないで。むしろ私は植物。続きをどうぞ」
「自分は何も見ていません」
 ティベリオは無言で頭を抱えしゃがみこんだ。
 ミシェルはなんとなくその肩をぽんと叩いた。
 結局、他にも賊がいるかもしれないのと、無事である報告のために城内に戻ることになったので、うやむやとなってしまった。



 賊の事後処理で、ティベリオが解放されたのは深夜だった。ミシェルと甘く語らうどころか、不機嫌なシルヴェスターと顔をつき合わせてサンドイッチ片手に頭の痛いお話を延々する羽目となった。お陰でくたくただ。
(ミシェルは落ち着いたかな? 今日はミミのところかな。俺の部屋に居たとしても、もう寝てるよな)
 ベッドに入ればおやすみ三秒のミシェルだ。今頃は夢の中だろう。もう、泣いてないといいが。あれからミミに預けたから大丈夫だとは思うが、やはり心配だ。
『私は、貴方の、こと、が、好き……』
 初めて聞いたミシェルの声。ミミより少し幼く、儚い声。抑揚はそれほど無かったが、ひた向きな目が、化粧のように彩った表情が、心を惹きつけた。世界ががらりと変わった気がした。
 女性の好きと言う言葉で心が動いたのは、何年ぶりだろう。もうずっと、他愛ないコミュニケーションで、挨拶のように消費する言葉で、誰にも求めていない言葉だった。
 そして、身内としてミシェルのことを愛しても、愛されることは求めていなかった。大切な人たちが手の届くところにいて、守れればそれで良かった。それくらいが丁度いいと思っていた。
 だって愛されてしまったら、自分の身を軽く考えられない。
(まいったな……)
 本当に参った。
 もし、自分が亡くなってしまったら。
 シルヴェスターはいい。以前はティベリオを死なせるぐらいなら自分が死ぬとでも言いたげな様子で自ら危険なことを引き受けていたから危なっかしかったが、今はミミが側にいる。もう死に急ぐような真似はしないだろう。文句を言うだろうが、ティベリオが死んでも前を向いて生きていける。
 エリーやミミは泣いてくれるかもしれないが、シルヴェスターがしっかり二人を支えてくれるだろうし、ミミの一番はシルヴェスターだ。エリーはこれから一番大切な人が出来るだろう。
 けど、ミシェルは。
『私の、心も、逝く、わ』
 今にも儚くなってしまいそうな風情で泣いていた姿が頭から離れない。
(儚くならずとも、あんな風に泣くんだろう)
 それを思うと、大切な人を亡くすのと同じぐらい胸が苦しい。その辛さを嫌というほど知っているから、そのことも苦しい。
 それとも、今ならまだ間に合うだろうか。突き放して、もっとミシェルを任せるに値する男に託して――――。
「ティベリオお兄ちゃん!」
 後ろから呼びかけられてはっとした。気がつけば足が止まっていた。
「エリー? どうしたんだ、こんな時間に」
 ぱたぱたと駆けてくるエリーに、体の向きを変えて訊ねる。
 いつもならこの時間はもう寝てるはずの彼女は、ティベリオの服をぐいと掴んだ。
「あのね、ティベリオお兄ちゃんのバカっ」
 開口一番、まさかの罵倒されました。
「ヘタれっ。弱虫っ。女泣かせっ」
 くたくたのあとの立て続けの罵倒、もう生命エネルギーはゼロです。
 面食らうだけで何も反応できないでいると、少し怒った顔をしていたエリーは、くしゃっと顔を歪めた。
「さっき、ティベリオお兄ちゃんが……ったらって、話してたけどさ」
 目をそらし、口にもしたくないと言いたげに消え入りそうな声で『死んじゃったら』と言ったエリーに、ティベリオは軽く目を見張る。
(そうか。あの時の会話、エリーにも聞こえてたんだな)
 温室の前でミシェルと話していた時だ。
 エリーはそんなティベリオをきっと見上げた。
「私は一杯泣くんだからね。お兄ちゃんやミミやミシェルお姉ちゃんがいたって、そんなの関係ない。これでもかってくらい泣くんだからねっ。そんなことくらい、わかっててよ! ――――もう、あんな思い、したくないよ……っ」
 声は怒っていたが、慟哭のようなその主張は、胸をしめつけた。ぽすんとティベリオに頭突きする前に見えた顔は今にも泣いてしまいそうで、追い討ちをかける。
 震える体を抱き上げて宥めながら、傷つけてしまったのだと、思い知った。身内を亡くしてまだいくらもたってないエリーには、特に堪えたようだ。
(そうか。俺が死んだら、この子にまであんな辛い思いをさせてしまうのか)
 漠然と、自分にはそこまでの影響力はないと思い込んでいた。けれど、その認識はもう改めなければならないのかもしれない。
「ごめんよ、エリー」
「言葉より態度で示して」
 ビシッと返された。
「わかった。態度で示していくよ」
「絶対よ」
 ぐすぐすと鼻を鳴らす音は、シルヴェスターの部屋につく頃にはすぅすぅと寝息に変わっていた。けれど、泣き顔が痛々しくて、本当に申し訳なく思う。
「顔を貸せ」
 寝台に運んだエリーをミミに任せると、シルヴェスターはティベリオの返事を待たずに書斎へ向かった。うん、これは確実に怒られるなと思ったティベリオは黙ってついていく。
 部屋に入るもそこそこに、シルヴェスターは振り向きもせず言った。
「エリーを泣かせて少しは自分のバカさ加減がわかったか?」
 どうやら全て筒抜けらしい。いつの間に情報を得たのだろうと思ったら、エリー→ミミ→シルヴェスターの順で聞いたのだろうと思い至る。
 ティベリオは殊勝に謝罪の言葉を口にした。
「はい。反省してます」
「そうか。ならいい」
 そう言ったきり、シルヴェスターは黙りこくってしまう。だが、ティベリオは知っている。こういう時のシルヴェスターは、まだ言いたいことがあるのだ。大方、文句の一つや二つぶつけたいのだろう。未だ口にしないのは、子供のように喚くかというプライドの表れだろうか。
 なら口を開きやすくしてやろうと、わざと軽口を叩いた。
「なんだ。お前も俺が死んだら泣くって怒るか?」
 そんなことはないが勝手に居なくなるな、馬車馬のように働く奴が居なくなる。そんな風に悪態をついて物を投げるなり蹴りを飛ばすなりしてくるかなという思考は。

 ――――ダンッ

 思わず肩を揺らすような音で遮られた。
 振り向きもせず左手で壁を殴りつけたシルヴェスターは、握った拳を壁に当てたまま動かない。
(これまでにないくらい怒ってるな……いや、それ以上に――――)
 以前、まだ王位争いの真っ只中だったとき。シルヴェスターを助けるために囮になった後、無言でぶん殴られたことを思い出した。あの時はまだ少年だったから、成人していたティベリオは、全力で殴られても頬を腫らす程度で済んだ。
 今振り向かないのは、顔を見たら最後、手加減なしで殴ってしまうからかもしれない。もし今のシルヴェスターに怒り任せに殴られたら、骨をやられるだろう。
 まあ、骨の一本や二本、別に構わなかったが、ティベリオはすぐに真面目な顔つきに戻して謝った。拳を握ったまま堪えているシルヴェスターの意志を尊重したかったし、これ以上傷つけたくもなかったからだ。
 無言の背中は、怒り以上に悲しみとやるせなさが窺えた。
「悪かった。もう、あんな軽率なことは言わない。考えない。エリーとも約束したよ」
「当たり前だ。――――もう行け」
 言われるままティベリオは書斎を出た。ここから先は、自分が出る幕じゃない。
 声をかけておこうとミミのところに顔を出せば、様子を気にしていたらしいミミははっとティベリオのことを見た。
「あいつのこと、頼むな」
「ええ。――――ミシェルのこと、頼んだわよ。貴方たちの部屋に戻っているから」
 ミミも少し何か言いたげな様子を垣間見させたが、にこりと笑ってティベリオを送り出してくれた。本当、シルヴェスターはいい嫁を貰ったとつくづく思う。
(それにしても、流石にあの姿は堪えたな……)
 何も言わず、ただ背を向けていたシルヴェスター。あんな姿を見せられるくらいなら、罵倒されたり殴られたりして怒られる方がずっと気が楽だ。傷つけたのだと、嫌でもわかった。
 もう子供ではないから、抱き上げてあやすことはできない。シルヴェスター自身、そんなことは望んでいない。溜め込みがちのシルヴェスターを発散させるのが自分の役目だというのに、彼に甘え、更には傷つける形となってしまった。
(死ぬなら先に死にたいだなんて、とんだ甘えだよな)
 もし、ティベリオが死んだら、シルヴェスターは先程のように黙って偲ぶのだろう。エリーを支え、ミミを支え、ミシェルを支え、自らは誰にも甘えず。ミミはそんなシルヴェスターに気がついて彼を癒してくれるだろうが、一度ついた傷は完全には治らない。
 ミシェルを泣かせ、エリーを泣かせ、シルヴェスターに拳を握らせ、ミミには言葉を飲み込ませ。自分はどこまでバカなのだろうか。
 だが、幸運なことに、自分は気がつけた。教えてくれた人がいたから。
(明日、ちゃんとミシェルと向き合おう)
 そして感謝を伝えたい。彼女が泣いてでも訴えてくれなければ、いつか、最も酷いやり方で大切な人たちを傷つけてしまったかもしれない。しかも、ミシェルを他の男に任せるだなんて――――。
(今すぐ会って、抱き締めたいと思う相手を? そりゃ無理な話だ)
 会いたい。ごめんって謝って、弁解して、安心させて。プロポーズをやり直したい。抱き締めて、今の自分の気持ちを伝えたい。知って欲しい。
 そこまで考えて、はたと気がついた。
 もう、ミシェル寝てるよな。
 今すぐ抱き締めたい相手が、俺のベッドで寝てるよな。
 …………俺、今日そこで寝るの?
 何とまあ精神力が試される話だ。ただでさえ、ごりごりと削られて瀕死だというのに。
(よし、顔だけ見て今日は別のところで寝よう。どうせ、ミシェルと話せるのは明日だ)
 ミシェルを起こさないようにとそっと寝室の扉を開けたら、明かりがついていた上に、ミシェルがベッドの上で座して待っていた。
 ティベリオは驚いて、ベッドに駆け寄る。
「ミシェル、まだ起きてたのか? 寝てて良かったのに」
 誰よりも早く寝るミシェルだ。こんな夜中に起きているのは辛かろう。
「別に、眠く、ない、です、から」
 無表情が崩れ眠そうに目をこすりながら言うミシェルに、ティベリオは思わず口許が緩んだ。なんだこのかわいい生き物は。あ、俺の嫁(予定)だわ。
 明日にするつもりだったが、早く安心させてやりたくて、端的に伝えておくことにした。
「ミシェル、昼間の話だけどさ、俺が間違ってた」
 ぱちっとミシェルの目が開いた。だが、すぐにうとっと目が閉じる。そしてすぐさまふるふると首を横に振り、ティベリオを見上げる。その様が愛しすぎてツラい。
「俺、自分も大事にするよ。俺という人間を指すのは、自分一人のことじゃないってわかったから。教えてくれてありがとう、ミシェル。一緒に長生きしよう」
 少し驚いたのち、ミシェルは眠たげな顔ではにかんだ。表情としては乏しいが、これまで無表情だっただけに、破壊力が凄い。全力で愛でたい。
 だが、人になったばかりの身はまだ慣れなかろう。
「続きは明日話そう。今日はもうおやすみ」
 早く休ませてやりたいと、その頭を軽く撫でて眠るよう促した。
 ミシェルは眠たげな様子で、それでも上目遣いにティベリオを見て。きゅっと軽くティベリオの衣服を掴んで、目を閉じた。
 ティベリオはフリーズする。
(なんだこれどうしたこれ。誰の入れ知恵だいや一人しかいねぇ、ってかいつの間に!?)
 動揺で手が少し空をさまよったが、やがて側頭部に落ち着いた。
 少しかがんで、唇が触れたのは、可愛らしい額。
(よくやった。よく頑張った俺の理性)
 内心自分を称えながらミシェルに笑いかけると、ミシェルも微笑み返し――――ぐいとティベリオの腕を引っ張った。
 ぐいぐいぐい。
 ベットに引っ張られている――――もっと言えば、押し倒されかけている気がするのは、気のせいだろうか。だが、残念ながら人になったミシェルの腕力ではティベリオを動かすことも儘ならないらしい。
「ミ、ミシェルさん、何してるのかな?」
「シルが、こうすれば、貴方は、自分を、大事にする、と」
 一瞬、ティベリオは悟りの顔で天を仰いだ。
 なんかとてつもなく嫌な予感がする。
「……具体的に、どうすればいいって ?」
 恐る恐る訪ねれば、ほぼ予想通りの言葉が返った。
「キスして、押し、倒せ、後は、貴方に、任せろ、と」
「シーヴァあいつ本当にうちのコに何させちゃってくれてんだ!?」
 後でミミにチクってやると固く誓う。
 しかし今はミシェルに向き合わなければならない。
 ティベリオの気苦労を知らず、ミシェルはこんなことを言う。
「折角、その気に、なったから、ダメ押し」
 確かにダメ押しだ。色々ダメ押しだ。ヒトの理性もダメ押しで破壊する気だろうかこの子は。
 しかしティベリオには最終奥義がある。
「……えーとじゃあ、まずは電気消して寝よっか」
 思惑通り、おやすみ三秒のミシェルは寝落ちた。
 すぅすぅと眠るミシェルの姿に、ティベリオは安堵するやら、ちょっと残念やら、頬が緩むやら。
 まさか、自分がこんな幸せを手に入れることがあるなど、シルヴェスターを王にすることだけが目標だった頃は思いもしなかった。こんなに平穏で、幸せな時を――――幸せだけど、何の拷問だろうかこれ。手を伸ばせば抱き込める位置に居るのに、できない。そんなことをすれば理性終了のお知らせだ。
『自業自得だバカが』
 どっかの王様の空耳を聞きながら、幸せと忍耐とを胸に、ティベリオも目を閉じた。
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